LOGIN「ヴィオレット」
ユリウス様の声が、私を呼んだ。
「弁明を許す。何か、言うことはあるか」
会場が、また静まった。
数百の視線が戻ってくる。
今度は先ほどまでとは違う色をしていた。 憐れみに似た何かが混ざっている。 無理もない。 婚約者に婚約を破棄され、聖女候補に告発され、そして何ひとつ言い返さない女。言えばいいのだ。
三月の階段は、突き落としたのではなく助けたのだと。
四月の髪飾りは、悪意ではなく不器用さのせいだと。 五月の渡り廊下では、私はただ微笑もうとしただけなのだと。証人はいない。
信じてもらえる見込みもない。 それでも、言うだけなら言える。言える、はずだった。
けれど。
私の喉は、まだ塞がったままだった。
言葉というのは不思議なもので、嘘をつく余地があるうちは、いくらでも滑らかに出てくる。
たとえば「わたくしは何もしておりません」と言うとする。
階段のことも、髪飾りのことも、そう言い切ってしまえば済む。 誤解の話だ。 私の言い分の方が正しい。けれど、その言葉は今、あの一言の後に続くことになる。
――この女は、数万を焼き殺した魔王です。
その直後に「わたくしは何もしておりません」と口にする。
……できるだろうか。
私は。
まぶたの裏に、色が滲んだ。
赤の、もっと奥にある色。
見た者にしか分からない色だと、あの娘は言った。
その通りだと思う。 私はあの色を、自分の手から出したことがある。そして、あの色の後に何が来るかも知っている。
音がなくなるのだ。
燃えている間はうるさい。
木が爆ぜ、石が割れ、いろいろな音がする。 人の声もする。 けれどそれらは全部、そう長くは続かない。 やがて風の音だけになる。その静けさを、私は何度もくぐった。
くぐって、次の街へ行った。
――やめて。
自分の記憶に向かって、私は言った。
今ここで見るものではない。 今は、この場を切り抜けなければ。けれど手遅れだった。
ひとたび思い出してしまえば、口は動かない。嘘を、つけない。
「……答えぬか」
ユリウス様の声が、硬くなった。
「答えられぬ、ということだな」
ざわめきが変わった。
憐れみの色が引いて、代わりに冷たいものが混じり始める。
沈黙は雄弁だ。 とりわけ、何を言われても言い返さない女の沈黙は。「やはり」
「あの方は、認めておいでなのだわ」
「恐ろしい」
そうか、と私は思った。
こういう仕組みになっているのか。
私は自分の前世の罪について何ひとつ言えないでいるだけなのに、この場の人々には、階段と髪飾りと渡り廊下を認めたように見えている。
罪が、罪の代わりになっている。
奇妙に公平な気もした。
私は罰を受けるべき人間だ。 理由が違うだけで、結論は間違っていない。「殿下」
進み出たのは、白い法衣の男だった。
聖教会から遣わされた司祭だ。
この国では、王家の行事に必ず教会の目が入る。 私も幼い頃から見慣れた光景だった。「聖女候補が受けた仕打ちは、教会への侮辱にも等しいものです」
「うむ……」
「公爵家のご令嬢であられることは承知しております。
しかし、だからこそ示しをつけねばなりません。 あるいは――」司祭は言葉を切って、私を見た。
その目に、憎しみはなかった。
私怨も、正義感すらもなかった。もっと事務的な何かだった。
手駒を一つ動かす程度の。「あるいは、ノクスハイム公爵家そのものについても、審議が必要かと」
会場が凍りついた。
私の背筋が、初めてこの夜、ぴんと伸びた。
*
父の顔が浮かんだ。
私が七歳のとき、侍女の腕を折ってしまったあの日。
父は青ざめる侍女に頭を下げ、それから私を膝に乗せて、こう言った。「加減を覚えような。おまえは強すぎるだけで、悪くはないのだから」
母の顔も浮かんだ。
ティーカップを砕くたび、母は同じものを黙って買い足した。
十年で何客になったか、私は数えていない。 母もきっと数えていない。あの二人は、何も知らない。
娘が前世で何をした存在なのか、知らないままここまで育てた。
知らないまま、これからも生きていくはずだった。――だめだ。
それだけは。
「……お待ちください」
声が出た。
ようやく出た。「わたくしの処遇については、いかようにも。ですが、父と母は関係が――」
「関係がない、と?」
司祭が静かに遮った。
「あなたを育てたのは、そのご両親でしょう」
言葉が、また喉で止まった。
そうだ。
その通りだ。
私は、あの二人の娘として育った。
優しくされて、甘やかされて、恋愛小説を読ませてもらって、
令嬢になろうと努力させてもらった。
その私が、こういうものなのだ。
ユリウス様が、額を押さえて長く息を吐いた。
「……ヴィオレット・ノクスハイムの処遇については、追って裁定を下す。身柄は、それまで拘束とする」
拘束。
裁定。 おそらくは国外追放、あるいは。構わなかった。
私はもともと、二度目の生を与えられただけの存在だ。
十七年ぶん、おまけをもらった。 恋愛小説に憧れて、微笑む練習をして、それなりに幸せだった。十分すぎるほど、もらった。
そうだ。
私は、赦されてはいけない存在だった。
だから、と目を伏せかけたそのとき。
会場の扉が――
吹き飛んだ。
翌日、私はゼルを呼び寄せることにした。「見つけられないなら、探し方を変えるしかない」アルヴィス様の提案だった。「ゼルの分析力なら、何か見えるかもしれない」昼過ぎ、ゼルが宮を訪れた。今日は納品の日ではなかったが、事情を伝えると育ての親は快く送り出してくれたという。馬車を降りたときの彼の表情には、いつもの子どもらしい笑顔ではなく、すでに引き締まった何かが宿っていた。「これまでの事件を、すべて見せていただけますか」ゼルは応接の間の卓に着くなり、そう言った。声も姿勢も既に軍師のものだった。私はガイル様がまとめた報告書の束を、彼の前に置いた。失踪者の一覧。ヴァイセン伯爵家の醜聞。物資輸送馬車の一件。すべてを順に並べた。ゼルはそれらを一枚ずつ丁寧に読み進めていった。指先が紙面を辿る速さは、五歳児のものとは思えないほど正確だった。しばらくして、彼は顔を上げた。「魔王様。一つ伺ってもよろしいでしょうか」「何かしら」「この一連の事件で、命を落とした者は」「――ひとりもいないわ」私は答えた。「怪我人も報告されていない。眠らされた者、資産を暴かれた者、物資を奪われた者はいるけれど」「なるほど」ゼルは報告書の一枚を指で示した。「失踪させられた三人は、いずれも聖女ミナ様への監視や、教会内部の情報統制に深く関わっていた者たちです」「監視や、統制」「つまり」ゼルはまっすぐに私を見た。「魔王様の素性、あるいは、教会が魔王様を追い詰めるために使う情報を握っていた可能性のある者たちです」私は息を呑んだ。「ヴァイセン伯爵の不正暴露も同じでございます」ゼルは続けた。「あの家は婚約発表の場で、態度を保留していた家のひとつ。教会側に転ぶ可能性が最も高い家
「シェラ。あの人に、こちらから連絡を取る方法はないの」翌朝、私は真っ先にシェラを訪ねた。「以前、あなたの私室に書状が置かれたでしょう。同じ方法で、こちらから返事を出せないかしら」シェラは少し考えてから、慎重に答えた。「試す価値はございます。ですが、期待はなさらぬよう」私はその日のうちに、丁寧に言葉を選びながら、返信をしたためた。『ネフィリス様へ。あなたの気持ちは嬉しく思います。けれど、あなたのやり方は多くの人を危険に晒しています。どうか一度、話をさせてください』その文を、シェラの私室の、以前書状が置かれていたのと同じ場所に置いた。羊皮紙の端が、机の木目に沿ってわずかに反っているのを、何度も指で押さえ直した。一晩、待った。眠りは浅く、何度も目が覚めた。そのたび、窓の外の暗闇に、誰かの気配を探してしまう自分がいた。*翌朝、文はそのままの場所に、そのままの状態で残っていた。「読まれた形跡すら、ございません」シェラが書状を手に取りながら言った。その声に、隠しきれない落胆があった。「他に、方法は」私が問うと、シェラは首を振った。「あの者は、こちらから接触される可能性を、常に警戒しております。同じ手を、二度は使わないでしょう」私は、机の上の書状を、もう一度手に取った。インクの色は変わらず鮮やかで、それがかえって、届かなかった事実を際立たせているように見えた。書き直すべきだろうか、と考えた。もっと違う言葉があったのではないか。もっと彼──『彼女』かもしれないが──の心に届く、何か別の言い回しが。けれど、考えれば考えるほど、正解が分からなくなっていった。相手の顔も声も知らないまま、言葉だけで気持ちを届けようとすることの難しさを、私は初めて実感していた。*私は諦めなかった。その日の午後、宮の情報網を総動員することにした。
翌朝、ガイル様は自ら現場に赴いた。失踪した会計官の私邸。そして書類がばら撒かれたヴァイセン伯爵邸。二か所を朝から歩き回って調べたという。普段は執務室に籠りきりの彼が、自ら泥のついた靴で歩き回るのは、珍しいことだった。夕刻、宮に戻った彼の顔には、明らかな疲労と、それ以上に隠しきれない困惑があった。「――どうでしたか」私が尋ねると、彼は首を横に振った。「何も。本当に、何も出てまいりません」執務室に、アルヴィス様と私、シェラ、ガイル様が集まっていた。日はすでに傾き、机の上の燭台が、早くも灯されている。卓の上には、ガイル様が持ち帰った報告書が広げられていた。書き込まれた文字の乱れが、彼の疲労を物語っていた。「まず、会計官の私邸ですが」ガイル様は疲れた声で切り出した。「窓の鍵は内側から掛かったままでした。扉も同様です。争った形跡もなく、私物も一切持ち出されていない。まるで、本人が着の身着のまま、煙のように消えたとしか」「使用人は」アルヴィス様が問うた。「三人おりましたが、誰も物音一つ聞いていないと申します。しかも」ガイル様は一拍置いた。「その夜、三人とも深く眠り込んでいたそうです。理由もなく、いつになく」「眠らされていた、ということね」私が言うと、ガイル様は頷いた。「おそらくは。ですが、薬物の痕跡も、魔術的な干渉の痕跡も、何一つ検出できませんでした」「伯爵邸の方は」「そちらも同様です。書庫の鍵は壊されておらず、警備の兵は誰も侵入者を見ていない。それでいて、書類は確実に持ち出され、一夜のうちに、貴族街のあらゆる家の門前に配られていた」彼は報告書を指で叩いた。「配布の範囲は、帝都だけで百軒を超えます。それを、たった一晩で。人の手では、まず不可能です」執務室に、重い沈黙が落ちた。窓の外は、既に夕闇が広がり始めていた。燭台
婚約発表から、三週間が過ぎていた。宮の日々はようやく落ち着きを取り戻していた。各国からの祝辞への返礼も一段落し、妃教育も新しい段階に入っている。窓の外では、初夏の気配が、庭木の緑を濃くしていた。廊下を行き交う侍女たちの足取りにも、以前のような張り詰めた空気はなく、時折、笑い声さえ聞こえてくるようになった。穏やかな日々だった。少なくとも、表面上は。「殿下。奇妙な報告が続いております」朝議の場でガイル様が眉根を寄せて切り出した。「奇妙、とは」アルヴィス様が問い返す。「聖教会関係者の失踪が、この十日で三件。いずれも忽然と姿を消しております」私は思わず身を乗り出した。「失踪ですか。事件性は」「それがはっきりしないのです」ガイル様は手にした書類に目を落とした。「争った形跡も、連れ去られた形跡もございません。まるで本人の意志で、静かに消えたかのように」「三件とも共通点は」アルヴィス様が尋ねた。「はい。いずれも、バルドウィン大司教に近しい立場の者でございます。教会の資金の流れを管理する会計官、地方への通達を担う書記官、そして」ガイル様は一拍置いた。「聖教会付きの、監視役を務めていた者です」その言葉に、朝議の間の空気がわずかに張り詰めた。「監視役というのは」私が問うと、ガイル様は答えにくそうに続けた。「聖女候補ミナ様の身辺を、常に見張っていたとされる者でございます」私は息を呑んだ。ミナを見張っていた者が消えた。その事実の意味を、うまく整理できずにいた。「もう一件、ございます」ガイル様が別の書類を取り出した。「東部のヴァイセン伯爵家。先の婚約発表の場で態度を保留していた家のひとつでございます」「その家が、どうした」「先日、伯爵の不正が暴かれました。教会からの資金援助を私的に流
婚約発表から五日が過ぎた頃だった。「明日、時間を取れるか」夕食の後、アルヴィス様が唐突にそう言った。「明日、ですか」「一日空けてほしい。予定は入れないでくれ」「それは構いませんが……何かございますか」彼は答えなかった。 ただ、少し困ったような、けれど隠しきれない何かを含んだ顔で視線を逸らした。その表情が珍しくて、私は思わず彼を見つめてしまった。 いつも先を読み、迷いなく物事を決める人が、今は明らかに言葉を選びかねている。「――秘密ですか」「そういうことにしておいてくれ」*翌朝、彼が用意していたのは質素な二頭立ての馬車だった。紋章もなく、装飾もない。 護衛も最小限で、シェラすら同行しなかった。「どちらへ」「行けば分かる」その言い方に、私は少しだけ意地悪をしたくなった。「殿下ともあろうお方が、行き先も告げずに婚約者を連れ出すとは。攫われたと騒がれても、文句は言えませんね」「――攫っているつもりだが」さらりと返されて、今度は私の方が言葉に詰まった。彼は窓の外を見たまま、こちらを見ようとしない。 けれど、その耳の縁がわずかに赤いことに、私は気づいてしまった。馬車は帝都を出て、緩やかな坂道を登っていった。 車輪が石を弾く音が、規則正しく続く。 窓の外の景色が、石畳から土の道へ、建物から草地へと変わっていく。やがて、馬車が停まった。*降り立った先は、帝都の外れにある小さな丘の上だった。見覚えのある場所だった。丘の斜面を白い花が埋め尽くしている。 タリアの花。 あの日、二人で見たのと同じ景色が、季節が一巡した今、また同じように広がっていた。「――ここ」「もう一度見たいと言っていただろう」彼が手を差し出した。私はその
婚約発表から三日が過ぎた。宮はまだ余韻の中にあった。 各国の使者たちが順に帰路につき、装飾が少しずつ片付けられていく。 祝宴の熱気は引いたが、その代わりに、確かな手応えのようなものが残っていた。各地から届く書状の内容も明らかに変わっていた。 以前は様子見の色が濃かった文面に、今は具体的な提案が並ぶようになっている。 通商の再開についての打診、次の交易路についての相談。 グレンツ侯爵が最初の旗を掲げたことで、動き出した歯車があった。「東方三国のうち、二国が通行税の引き下げに応じました」朝議の場でガイル様が報告した。「聖教会の影響下にありながら、独自の判断を下したことになります」「教会の締め付けに、綻びが出始めたということか」アルヴィス様が地図に目を落とした。 赤い印のいくつかが、既に消されている。「そう見てよろしいかと。婚約発表の場で、帝国貴族が公然と支持を表明したことが、各国に伝わっております」私はその報告を聞きながら、あの夜の広間を思い出していた。一人が旗を掲げ、それに続く者が現れる。 動き出した流れは、思っていたよりも遠くまで届いていた。*その日の夕方、私は自室で書状の整理をしていた。積み上がった羊皮紙の山を、一枚ずつ確認していく。 祝辞への返礼、今後の予定の調整、細々とした事務。 婚約が成立したからといって、日々の仕事が減るわけではなかった。扉が叩かれたのは、日が沈みかけた頃だった。「――お嬢様。よろしいでしょうか」シェラの声だった。その響きに私は手を止めた。 いつもの落ち着いた声とは、明らかに違っていた。「入って」扉が開き、シェラが入ってきた。一目で分かった。 彼女の顔が蒼白だった。「シェラ。どうしたの」「――お伝えせねばならないことが」彼女は後ろ手







